言いたいことは完結に。

Compactly Completed Comics

世界から太陽が いなくなってよかった。愚かな自分を白日の下に さらさないで済む。

坂道のアポロン(8) (フラワーコミックスα)
小玉 ユキ(こだま ゆき)
坂道のアポロン(さかみちのあぽろん)
第08巻評価:★★★★(8点)
  総合評価:★★★★(8点)
 

1960年代後半。転入生の薫は、不良の千太郎と出会い、ジャズを通じ友情を育む。同級生の律子に、一度は振られた薫だが、彼女を支え続け恋が実る。文化祭での演奏を引き受けた、薫と千太郎。だが、千太郎の胸中に異変が…!?

簡潔完結感想文

  • 父帰る。繋いだ手を離した父だが、離れた手も やがてまた繋ぐ(『夜が明ける』)。
  • 幻のイベント。初めて出会った時と同様に屋上で千太郎は再誕す。だが彼の決意は…。
  • 神の不在。日ごとに昼が短くなる季節、太陽を失った彼らの青春の輝きは色褪せる。

陽を失った青春は黄昏時、の 8巻。

非常にスリリングな巻となっております。

ネタバレ前提で書きますと、作者は読者の安心を裏切る。
高まる緊張からの解放、それに ほっとしたのも束の間、
とんでもないクライマックスを用意していた。
そういう意味では「非情」です。

あからさまなクライマックスの展開ですが、
登場人物の心情が丁寧に描かれてきたため、その人の気持ちが痛いほど分かる。

彼にとっては ずっと不安と共に歩んできた人生だ。
その不安が頂点に達してしまったから、もう元には戻れない。

たとえ いつも通りの日常が戻ってこようとも、
誰が自分の過失を責めなくても、自分自身が許さない。

だから姿を消す。
それが自分への罰で、周囲のために出来る唯一のことだと信じて。

しかし彼は知らない。
彼は生きているだけで周囲を照らしていたことを。
彼に与えられた役割は悲恋のアポロンだけではない。
太陽神として生まれてきたことを彼はまだ知らない。

そして周囲も、光を失って日々をずっと照らしてくれていた存在を知る。

物語は急速に色を、輝きを失っていく…。


親が帰る日の朝、千太郎(せんたろう)は家出の決意を胸に玄関を出る。

動機は自分が父に会いたくないからではない。
父が自分と会うことで、父の過去の悔恨を想起させてしまう引き金になることを恐れている。

そして それは暴力へと続く父の飲酒の契機になりかねない、ことも危惧しているだろう。
弟妹たちに類が及ぶのではないかと想像すると、不安ばかりが募る。


そんな千太郎の決意を、薫は見抜いていた。
だから早朝から彼の家の玄関先で待ち伏せをしていた。

これは薫が、『7巻』の百合香(ゆりか)の絵画撤去問題や、
長年の付き合いで、千太郎は辛い時こそ冷静であることに気づいていたからだろう。
昨日、別れた時の千太郎は、あの絵画を前にした時と同じ眼をしていた。

引き留める薫を千太郎は物理的に突き放す。

ここは直接的ではないものの千太郎から薫への初めての暴力となる。
追い縋る薫を、全力で引き剥がす千太郎。
それほどまでに彼の決意は固く、そして不安は大きいのだ。
もちろん薫に怪我をさせてしまって後悔もするのだけど。

必死でマウントを取った薫は千太郎に ある言葉を告げる。
それは彼が自分の世界を拡げてくれた言葉。

「怖がってたら 何もいいことないって言ってたのは どこのどいつだよ」

『1巻』の雨の日の話ですね。
こうやってエピソードを丁寧に重ねてくるところが大好きです。

それを千太郎が忘れているのも らしいですね。
人を支える言葉は、何気ないところから出てきて、感銘を受けた当人だけが覚えている。
市井の名言は そういうものかもしれない。

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のび太ジャイアンに唯一 勝つ場面。勝因は自分よりも大事な者のために戦う使命感だろう。

でも 緊迫したこの場面、私は別のことを連想していた。
それは『ドラえもん』6巻(多分)のドラえもん に安心して未来に帰って欲しい のび太
ジャイアンに いつまでも食らいつく場面です。

ちょうど小柄なメガネくんと大柄な人なもんで ぴったし。
というか当初から のび太ジャイアンが友情を育む世界線のお話なのか?


の騒動の真意を弟妹の中では幸子が気が付いた様子。

父の帰還に際しての妹の幸子(さちこ)は千太郎の観察者ですね。

これまでなら律子がこの位置にいることが多かったが、
千太郎の家庭の事情であることもあり、
彼と一番年が近く、考えもにている幸子にその役割が与えられる。


帰宅した父が寂しい思いをさせた子供たちに順に土産を渡す段で初めて気が付きましたが、
千太郎の弟妹たちの名前は、しりとり になっているんですね。

さちこ → こうた → たいち → ちえこ

そして ここでも千太郎だけが浮いている。
なぜ 幸子ちゃんを「う」から始まる名前にしなかったのか。
彼の両親を責め立てたい。


やはり父も千太郎との再会で緊張していることが分かる。
しかし父は千太郎にも土産を用意していた。
高そうな万年筆を受け取ることを躊躇していた千太郎に父は声を掛ける。

「子供が 親に遠慮なんかするもんじゃなか」

叱責にも聞こえるこの言葉が 千太郎のわだかまりを水に流す。
千太郎が言葉を噛みしめるトイレにはそういう意味があるのだろうか。


配の種が一つ消え、文化祭に向けて再始動する2人。

派手な演出を試みようとしている松岡(まつおか)率いるバンドに対抗すべく、
律子の父を交えて練習を開始するが、
まだまだ松岡の華やかさに比べると見劣りするのではと悩む薫。

そこに鼻歌を歌いながら地下練習室に入ってくる律子。
それを見て薫は律子に歌での参加を打診する。

これは考えてもいなかった展開。
律子がメンバーに加入するなんて、こんな幸せな展開があっていいのだろうか。

薫の指導は厳しい。
それこそ また律子が音楽を嫌いになるんじゃないかと危惧するほど。

そこに千太郎がブレイクを挿む。
頭でっかちになりがちな薫をやんわりと制止し、律子をリラックスさせる。
3人寄れば文殊の知恵。
3人なら無敵なのです。

この同級生の3人が、こうやって一つの目的に向かう姿は青春そのものだ。

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紆余曲折を経て安定感のある三角形に落ち着いた3人。幸福は絶頂を迎えるのだが…。

かし千太郎の人生が十全になることを許さないのが本書。
人の世の受難を全て彼の身に起こします。

文化祭当日、なかなか集合場所に来ない千太郎を待っていると
律子に一本の電話が掛かってくる。

それは前日、千太郎がバイクで事故に遭ったというもので…。

病院へとかける薫。
読者の手も焦りながらページをめくる。

千太郎の怪我は大したことなかった。
しかし千太郎にとっては、自分が怪我するよりも重い現実が待ち受けていた…。

千太郎の無事を確認した薫だが、
誰よりも千太郎の心の持ち方を理解しているから、
彼の精神状態を心配し、彼の姿を探して病院内を駆け回る。


病院の屋上でシーツを被って寝ている千太郎。
薫がそれを剥ぎ取るのは『1巻』の再来である。

悲しい時ほど平気な振りをする千太郎を分かっているから、
薫は彼を抱きしめる。
そして彼に泣くことを許す。
彼の人生の全てを許す。
でも千太郎はこの世界における自分を許すことは出来ない…。


今回の千太郎が くるまれていたシーツもまた聖骸布だろうか。

ただし今回は再度 生まれるためではなく眠りにつくための布。
千太郎は世の連環から解き放たれ、一人消えゆく。

高校1年生の初夏からの2年強、それが千太郎の青春時代であった…。


り疲れた薫が屋上で目を覚ますと、
幸子もまた奇跡的に目を覚ました。

だが、その世界から千太郎の姿は消えていた。
母の形見として身に付けていたロザリオを残して…。


妹の身に大事が無かったことを見届けて、姿を隠す。

千太郎という人間は、無事であった結果に喜ぶ人ではない。
原因を引き起こした自分を罰しようとしてしまうのだ。

実は千太郎父子が似ているところは内罰的な性格ではないだろうか。
自分の軽率な行動、過失、それらが どうしても許せない。

そんな千太郎にとって この世は生き辛いのだろう。
自分には庇護される価値もなく、庇護する側にも回れないことを思い知らされた。
だから自分を罰してしまう。
自分が生きる意味など見当たらないと考えてしまう。

育ててくれた この川渕(かわぶち)家のボトルネックは自分であると考え、
それを除去すれば家庭は円満になるだろうという結論に至ったのだろう。

『7巻』の海で自分が姿を消したことで薫と律子の関係がまた一歩近づいたように、
この世の真理として自分さえいなければ、世はすべてこともなし、と考えたのかもしれない。


とても嫌な考えだが、千太郎が もしクリスチャンでなければ、
自分の人生を自分で終わらせる可能性もあったのだろうか。

もし彼が神を信じていなければ、
千太郎を探しに自宅に戻った母が千太郎の変わり果てた姿を見たかもしれない…。

宗教に対して余りにも軽率な物言いかもしれないが、ここは神に感謝したい。


中を歩いて千太郎の姿を探していた薫が訪れたのは千太郎に馴染みが深い教会。
そこで薫は自分も聞かされていなかった千太郎の本当の出自を聞く。

それは千太郎が、父親と一切血が繋がっていない事実。

そして ずっと千太郎がロザリオを身に付けていたのは
「それを手離してしまえば 自分が世界から
 切り離されてしまいそうで 怖いから」という理由も知る。

だが彼は、そんな世界との繋がりすら置いていった。
その覚悟を知ることで、薫は千太郎が戻ってこないことを予感する。


その予感に涙を流すしかない薫を励ます律子の父。
彼もまた苦しいでしょうね。

息子同然に関わってきた千太郎、
メンバーの顔だったカリスマ性のある淳一、
ジャズ仲間たちが相次いで失踪してしまうのだから。

そうなると今度は薫が不幸をもたらす人に思えてきます。

が、律子の父は優しい。
ジャズ仲間として彼を受け入れ、薫とのセッションを提案する。


は無気力になる。
無気力に勉強に没頭する。

それは転校前の彼の姿。
青春も成長も全てが夢幻の如く消えていく。

だから以前のような過ちを繰り返してしまう。

受験に没頭しようとする薫の姿に律子は距離感を感じていた。
そこで理由をつけて薫を自室に呼ぶ。
それは薫の視界に自分を入れようとする律子の必死の努力だ。

律子が口にする千太郎の話題を遮るように口づけをし、
律子を押し倒した薫は、彼女の耳元で千太郎が「いなくなって よかった」と囁く。

そのことに怒り、失望する律子。
薫は家を辞去する際、律子に謝罪と、そして自分の進学場所が東京であることを告げる。

それは全く相手を思い遣らない棘のある言葉。
薫は律子の幸せを第一に考えられない未熟な自分に戻ってしまった。
全ては太陽がこの世界にないからである…。


なぜ薫は千太郎がいなくなってよかった、などと言ったのか。
これは薫が精一杯探した、千太郎がいなくなったことのメリットなのではないか。

それを探さないと律子と2人でいても千太郎の幻影ばかり追ってしまう。
露悪的にならないと、律子の前で弱音を吐いてしまう。
もう戻らない過去にしがみついてしまう。

だから わざと突き放すように棘のある言葉を並べ、前へ進むしかなかったのではないか。


そうして何回目かの過ち、何回目かの自己嫌悪に陥った薫は、
東京行きが決まる前から荷物を整理する。

断捨離するのは、あの輝かしい日々。
この町で出会った全てのモノ。

太陽に近づいていた あの青春の日々は灰へと帰る…。

出会いと別れを繰り返してきた本書の巻末。
最終巻へ続く最後の巻末で起きたのは、青春との別れだった。